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「FDエッセイ」の連載にあたって

 全学教育システム改革推進本部の重要な使命の一つとして、FD(Faculty Development)活動への取り組みが挙げられることは、改めていうまでもありません。お茶大では、各教員が授業内容や教育方法などの改善・向上に努め、質の高い教育サービスが提供されてきました。しかし、この種の取り組みに関する情報が教員間で交換・共有される機会や場は、必ずしも多いとはいえませんでした。また、FD活動の一環として、毎年、学生による授業評価アンケートを実施してきましたが、その成果が必ずしも十分に生かし切れてはいないという反省もありました。
 そこで、今年度は、平成17年度に実施した学生による授業評価アンケートをもとに、いくつかの新しい企画を立てました。その一つが、全学教育システム改革推進本部HPでの「FDエッセイ」の連載です。昨年度の授業評価アンケートで総合的に高い評価を得た、いわゆる「講義科目」の担当者の先生方を中心に、ふだんの授業における教育上の工夫や感想、要望などを、自由に綴っていただきます。
 全学教育システム改革推進本部では、今月から毎月お一人ずつのエッセイを紹介していく予定です。この連載を一つのきっかけとして、FD活動についての関心がいっそう高まり、意見交換の輪が広がっていくことを願っております。(2006.9.1 教育推進室長 山本直樹)


FDエッセイ(2006〜2007)

第一回 「Integrating Skills in Core Curriculum English Classes」(2006.09.01)
Edward Schaefer(Professor)

Foreign language courses are often divided into separate skills: the four skills of speaking, listening, reading, or writing. Much current thinking, however, advocates more integrated approaches to language teaching. Sogo Eigo I (Speaking) and Chukyuu Eigo 2 (Speaking and Writing) are also skills-based courses, but I try to incorporate something of an integrated approach into them.
 In Sogo Eigo, the main emphasis is on speaking, but to achieve the students' speaking goals―the presentation of short talks on a given topic―speaking is integrated with reading, listening, and writing, thus creating a four skills framework for the course. First, students read and listen to a dialogue or passage on some (hopefully) interesting topic, such as lifestyle, family, relationships, social problems, or other such issues. Then they try to formulate their ideas and opinions on the topic through pair and group discussions. Their homework is to write a short speech on the topic and bring it to the next class. In the next class, they give their talks in small groups, after which each group chooses one person to present her speech to the whole class. Following the talk, we have a short question and answer period.
 Thus, while Sogo Eigo is a speaking class, students have a chance to practice the four skills in a contextualized situation. They can also develop public speaking skills, as each student is required to speak in front of the class at least once. In my experience, the Q and A period provides some of the best moments of the class, as well as some of the most awkward. It's awkward when students can't think of any questions to ask, which sometimes happens-but it's great when, following their prepared talk, students get into a natural exchange regarding the topic. This also happens.
 Chukyuu Eigo is designed as an integrated skills course-speaking and writing-though the main purpose is to practice English academic writing. As with Sogo, it is built around a series of topics. Students start by reading model essays on the topic. We then analyze the essays and study the principles of organization for writing academic English. Students also discuss the topic in groups. Their homework is to write a first draft of an essay and bring it to the next class, at which time they exchange essays and comment on their partner's essay by answering a list of questions. They then write a second draft of the essay as homework and give it to the teacher (me) for comments and advice. The final project for this class is a portfolio-students pick three of their essays and write a third and final draft for them.
 Writing is usually perceived to be the hardest language skill. In this class, students discover that English writing is actually something they can do. The key to good writing is rewriting-revising papers and producing second and third drafts. Students appreciate the feedback they get on content and errors, and the sense of accomplishment they get from producing decent English essays.

第二回 「発達心理学の旅への誘い 授業で工夫していること」(2006.10.02)
内田伸子(理事・副学長)

Ⅰ【講義のねらい】発達心理学村の住人になること+批判的思考力を涵養すること
 私は、春学期に1年生を対象とした「発達心理学概論」の講義を担当している。受講生は高校までに心理学を学んだことのない1年生であるから、授業のねらいの第一は、もちろん、発達心理学の最先端の知識ー宣言的知識も手続き的知識もーを伝えることである。第二のねらいは、この授業の受講を通して、批判的思考力を身につけさせることである。なぜ第二のねらいを掲げるかと言うと、この頃の大学生をみていて、彼らがあまりにも素直すぎて危なっかしいと感じるからである。彼らは、高校までは教師の語ることばや板書のことば、教科書のことばは「真実」として受け取り、覚えて使うというタイプの学習に馴染んでいる。教師のことばを疑うことなど思いもよらない。専門書に書かれていることも「素直に」受け取る。これでは「知の受容者」にはなれても「知の創造者」に参画することはできない。そこで、第一回目に受講するときの心構えとして次のように宣言する。
 「科学理論というものは無条件に信じるべきではありません。講義やテキストに書かれた事柄は""今の段階ではここまでしかまだわかっていない""ということの洗練された表明にすぎないのです。つまり学問の知の限界を示しているのです。あくまでも、究極の真理についての試論であり、至論ではないのです。ありうる仮説の可能性の一つを提示しているにすぎません。従って、常に自分の頭を通して考え、これは確かなことか、本当にそう言えるのかを常に吟味することが必要なのです。この発達心理学の講義で提示することも、無条件に鵜呑みにせずに、きちんと吟味して取り込んでほしいと思います。講義を聴きながら、疑問をもつこと、対案を提起することが受講者の貴女たちのなすべきことなのです。」と。  こう述べて具体的な疑問の出し方の訓練として、毎回、講義終了の3分前に講義を終え、B6版の用紙に3分間コメント作文を書いてもらっている。コメントの中からすぐに答えておいた方がよいもの、よいところに気づき、異議申し立てをしているものなどを選び、翌週、B4版裏表二枚程度にまとめて配布する*。

Ⅱ【授業の流れ】
1.授業開始5分前:メッセージソングを聞きながら友のコメントを享受する
 学生たちは、授業五分前までには教室に入り、その日の講義内容に関連あるメッセージソングを聞きながら、級友たちがどんなところに目をつけたか、どんな批判を展開しているかについて熱心に読みふける。それによって1週前の復習もできるし、その日の授業で何が話されるか、批判的に受け取ろうという構えが出来てくる。批判の目安として、自分自身を振り返り、講義のどこにひっかかったのか、自分の体験に照らして検討するように勧めている。「"心理学は自分自身を被験者にできる"という先生の言葉がとても印象に残りました。私はまさに、自分の心の動きが気になって仕方がなく、その結果として心理学に強い興味を持っています。なぜ私は涙が出るのか、なぜ秋にはあんなことが気になったり怖かったりするのか…など、自分の心の動きの原因をなんとかしてさぐりたい!という願望が昔から心の中にありました。(以下略)」(人文1年 N.A.)などと記している。
2.授業への導入:3,4名のコメントの紹介 疑問や質問に答え、その日の授業に架橋するコメントを2,3紹介する。年輩の聴講生や教員のコメントは現役生より迫力があるのでよく紹介する。受講生にとっても新しい視点を開かれたり、尊敬の念がわいたり、書いた本人の自信になったりと励みになっている。他のコメントに共感するコメントが書かれ互恵学習が起こりやすい。100~120名もの受講生だと一方的になりがちな授業を幾分でも双方向的・互恵的にするのに役立っている。
3.授業:授業はすべてパワーポイントとDVD(毎回10分程度にNHKスペシャルなどから編集した映像教材を独自に作成して用いている)で進めるので、ノートをあまり採る暇はない。全身を耳目にして聴いて(""聞きながら""ノートをとるのではない。能動的な情報処理をする聴き方)もらいたいので、ノートはメモ程度。その日に用いたフィルムはPDFファイルにして心理学科の内田のHPにアップしておき、復習に役立ててもらうことにしている(2006年度分をご笑覧ください*)。
*お茶大HP→文教育学部→心理学コース→内田伸子:発達心理学概論[特論]の順にクリックしてご参照ください。 発達心理学研究室(通称内田ゼミ)のホームページ
4.授業中の語り:心込めて、語りかける調子で講義する。受講生の関心や既有知識、問題意識に関連づけつつ講義を進める。世の中で起こっている事件やマスコミ報道などタイムリーな話題も多く盛り込むようにしている。
5.3分間のコメント作文:終了3分前に話を終え、出席票を兼ねたコメント作文に記入してもらう。
6.予告と予習ページの提示:終了時に次回に取り上げる章を予告し、拙著『発達心理学 ことばの獲得と教育』の該当箇所で予習してきてもらう。

Ⅲ 授業効果の測定と授業への反映のさせ方
1.学生の書くコメントをその日のうちに読み、解説の足りなかったところ、誤解させてしまったところをチェックし翌時間に解説し誤解を解いてから進めている。
2.何よりも学生のテストレポートの回答を読むと、どこまでわかってくれたか、批判的に物事を捉えることができるようになったか、どのようなトピックのときに誤解が多く生ずるかなどを分析して翌年に改善して授業方法に反映させている。
3.全学教育システム改革推進本部の授業評価のまとめも拝見するが、特に授業に役立つのは自由記述の部分である。毎回コメントから改善点をみつけ授業改善を行っているが、出席票もかねているため本音が引き出せない可能性がある。授業評価では授業全体を通して匿名で書くため本音が聞けてありがたい。
4.効果測定:批判的思考の育成におけるコメント作文の効果測定を実施した。実験群(本講義受講1年生)100名と統制群(この講義を受講しておらずコメント作文を書かせない1年生)100名を対象にして、まず、「事前テスト」として柳澤桂子氏の「英語早期教育」(朝日新聞の論説)についての論評作文を書いてもらった。実験群には論説文に関係ある知識を提示するため第2言語習得について3回分の講義を行った。統制群は論説には直接関連のない人格発達の講義を行った。3週間後に、事後テストとして、同じ論説文について論評作文を書いてもらった。事前テストと事後テストの結果を比較したところ、実験群は事前テストの段階から論説の4つの論点についてそのままうけとってよいか、さらにデータが必要だとして疑っていたが、統制群ではすべて、疑うことなく受け入れていた。事後テストになると、実験群は、3週前に疑問を抱いた点について、授業で得た知識を踏まえて反論し、反論の論拠も適切であった。この結果は、批判的にみる態度と内容知識の両方があって初めて説得的な異議申し立てが可能になり、知の創造者たりうることが示唆される結果であった(発表準備中)。
5.ご興味をもたれた方は内田伸子の授業方法についての拙稿をご笑覧ください。
内田伸子・佐藤公代 (2001)
「大学教育における教授・学習過程と学生の発達過程の関連 集中講義の授業評価による教授・学習過程の検討」
『愛媛大学教育学部紀要』47(2),1-20。
内田伸子 (2006) 「発達心理学の旅への誘い『発達心理学キーワード』を編集して」
『書斎の窓』No.557, 2006.9月号,有斐閣.Pp.47-52.

第三回 「私の悩み」(2006.11.01)
千葉和義(サイエンス&エデュケーションセンター 教授)

私の授業が評価されているとするならば、常に学生達に話していることから来るのかもしれません。「授業で分からないことがあれば、それは私の責任です。でも、もしも授業が終わって分からないことがあれば、それは君たちの責任です。最後の一人が分かるまで、説明しますから、分からない人がいたら、恥ずかしがらずに、質問して下さい。」 "君たちの責任"というのは、テストの結果で、とってもらうことにしています。
 それから、もう一つ特色があるとするなら、遅刻を欠席扱いにすることです。出席をとり終わるまでに教室に入れば、"出席"ですが、10秒でも遅れれば、"欠席"です。「厳しく授業運営することで、学生を鍛える効用がある。」と、うそぶいております。
 最後に告白しますと、最近、授業で居眠りをする学生が出てきました。自分の授業力が低下しているのではないかと悩んでおります。もしかすると、年、なのかとも思います。でも、居眠りが出ない時もあり、違いを探せば、楽しく興奮しながら授業した時は、うまくいっていると気付きました。どうすれば、そんな自分にいつでもなれるのか、大きな課題であります。そして、「客商売だなあ」とつくづく思います。

第四回 「学生評価の効用」 (2006.12.01)
小谷眞男(生活科学部 助教授)

「何かFDエッセイを」ということなので、この際、学生評価に話を絞って書くことにした。
 お茶大に来た当初は、自家製フォーマットで自分の担当科目についての学生評価(student appraisal)を学期末にやっていた。「人にモノを教える」という慣れない営為に全く自信がなかったからである。「生活法学総論」に対する学生評価の最初の4年間(1998-2001)の推移をみると、「この講義はものの考え方を深めたり知識の蓄積に重要な寄与をなしたか」という評価基準がおおむね好成績で、「重要な概念が明確かつ分かりやすく説明されていたか」という基準の評点が概して低かったということがわかる。自由記述欄にも「毎回の講義のテーマをもっと明確に示してほしかった」というものがあって、体系的な説明に不十分な点があったことを示唆している。「配布資料や課題の出し方は適切であったか」という評価基準については、経験的に要領がつかめてきたせいか、年々数字が改善されている。
 自由記述欄には、そのほか、「議論して深く考える練習になった」など肯定的意見がある一方、「みんなの意見をプリントして配るのは他の人の考えも分かってよいが、名前は載せないでほしい」という感想もあった。そこで、その翌年からは特定の論題についてコメントを書かせる前に「編集してフィードバックするときには名前を伏せませんから」とあえて言っておくようにした。そうすると学生も覚悟を決めて(つまり責任をもって)自分の意見を書く。文章を通じてであれ口頭であれ他人との率直な意見交換があってこそ、ひとりひとりの考えを深く耕していくこともできるという経験、これもまた楽しからずや、というわけである。
 毎年のように指摘されているのが「板書が見づらい」「黒板に書きながら説明されると混乱する」といった感想である。どうも思いつきで書きなぐる私の板書は相当分かりにくいらしく、他の科目のリアクション・ペーパーでもしょっちゅう批判されているところだ。あるとき、あれこれ板書計画を立てて改善を図り「今日の板書はどうだったであろうか?」と批評を求めたら、「板書に注文つけるなんて学生のわがまま。そんなのいちいち気にするな」と逆に慰められた。
 「生活法学総論」に話を戻すと、「普段の課題が多すぎる」「そのうえ、学期末の最終レポート提出+口述試験は負担が重すぎる」というたぐいの不満、これも毎年必ずある(ちなみにこの科目では、イタリア式に、学期末の個人別口述試験をおこなっている)。そこで、これもシラバスに「この科目は結構やってもらうことが多い(らしい)です」と予告しておき、開講時にも直接注意を喚起することにした。これは一種のスクリーニング効果がある。
 以上は、どちらかと言えば技術的なことであるが、2年めの最後に「生活法学とは何のためのものなのか、結局最後まで分からなかった」と書かれたときは、これはなんとかしなければならないと思った。それには生活世界と法ルールの関係を吟味するという法社会学的な課題が生活者にとってどういう意味をもっているか、このような問いに包括的に答えることが必要になってくると考えられるが、その探索の過程はいまだデコボコ道の途上にあると言わざるをえない。
 2002年度から全学共通の授業評価フォーマットが導入された(個人的にはそれまでの時系列分析が杜絶させられて大いに迷惑したが)。その後の4年間(2002-05)の評点の変遷をみると、「質問・発言を促してくれたか」の項目に一番強い反応があり、反対に「量・スピードは適切だったか」に依然として過重負担感が認められる。自由記述欄でも「普段の課題が非常に多くて大変だったのに、ほとんど出席しなかった人が学期末レポートだけで単位が取れるのは納得できない」という一見もっともらしい意見があった。そこで、私の科目では何であれ出席は一切取らないこと、その代わり成績評価についての考え方・基準・平常点のウェイトなどを翌年度から出来る限り明示するように努力した。「毎回最後のほうが駆け足となり時間不足で欲求不満が残った」とか「リアクション・ペーパーを書かせるときは、最後にもう少し時間を残しておいてほしい」という批判は耳に痛い。未だに時間配分がうまく出来ないのは、教師として全く情けない話である。さらに「授業の運びがやや単調」ぐらいはまだいいとして、「小谷氏の話は眠気を誘うので、もっとアグレッシブに展開してほしい」あるいは「もっと気の利いたことを言ってくれれば目も覚めます」などというコメントを見たときは、いつの間にか惰性に陥っていたのかもしれない自分に気づかされた。10月25日のFDシンポジウムでもそういう話が出ていたが(先月の千葉さんのエッセイにも)、こちらが何か新鮮な知的興奮を感じながらやっていると、学生は鋭敏に反応してくるし、受講中のテンションも高い。このことは今年度から遊び心で始めた実験的新設科目「法と文学」でも毎週実感させられているところである。お茶大生の知的感度を甘くみてはいけないのだ。
 いずれにせよ、もし昨年度の「生活法学総論」の学生評価の結果が何らかの観点からみて「良かった」というのであれば、それは疑いなくこれまでの受講者たちのおかげであろう。

第五回 「今日の小噺」(2006.12.25)
三原芳秋(語学センター 講師)

 Faculty Developmentということですが、私のような任期付の「授業担当講師」がいったいFacultyというカテゴリーに属するのか、よくわかりません。とはいえ、「学生の評判が良かった」とおだてられると、それは、もちろん、若い男性教員ということで鞍馬天狗のような高下駄をはかされていることは間違いないにせよ、多少鼻が高くなったように錯覚することは、ないわけではありません。そこで、あらためて、学生による教師の通信簿をながめてみました。すると、「『今日の小噺』が面白かった」というコメントに、しばしば出会います。
 もともと「今日の小噺」などというタイトルはなかったはずですが、いつからかそういう通称になった模様。では、これはいったい何かと言うと、授業の頭に5~10分ほど、時事ネタや週末に観たお芝居の話などに絡めながら、言語や文化に関する(文字通りの)小噺をして時間を潰し、ちょっと遅刻気味の学生もみんな集まったあたりで出席を採ろうという、ただそれだけの話です。実は、お茶大生はあまり遅れてこないので、当初の目的は失われ、しかも興に乗ると15分も20分も喋り散らしたりして完全に自己目的化している、そんな「小噺」の正体は、古色蒼然とした「教養」トークです。去年から大学の教壇に立つことになり、最初に考えたのは、正しい英語をしっかり教えることは当然ながら、やはり「教養英語」なんだから、なにか「教養」じみたこともしてみたいということで、そのささやかな実践として始めたわけです。昨今は、教養英語の授業を商業主義の語学学校に外注する大学がちらほら出てくるご時勢で、それこそ最高学府の「品格」を疑わざるを得ないような情況ですが、はからずもその時流に抵抗しているのかもしれません。なにも独創的なことをしているのではなくて、私自身の学生時代を思い出しながら、英語の先生から聞いた哲学の話や、ドイツ語の先生から聞いた音楽の話や、ラテン語の先生から聞いた神学の話や、そういう「これは、いいなあ」と思ったことどもを、単にマネしてみせているだけなのです。
 「読書ノート」という課外活動もあります。これは、お茶大では前々から実践されていたものを、そのままそっくりマネして始めたのですが、とても気に入っています。自分で読みたい本を選ばせて、一定速度で読み進めながら、定期的に「読書ノート」という形でレポートを書かせるものです。「生まれて初めて原語で一冊読みきるという体験は、忘れがたいものになりますよ」と(本心から)学生をそそのかします。これも、昔授業を受けたことのある、ある温泉好きな独文学の先生がおっしゃっていたことのマネです。出てくる「読書ノート」に、できるだけたくさんコメントを書くことも、楽しいものです。これまた、ある高名な翻訳家でもある米文学の先生がなさっていたことを、非力ながらマネているのです。
 つまり、私のしていることと言えば、かつて自分が「これは、いいなあ」と思った先達の実践を、ただただマネしているだけなのです。ちっとも「リーダー」の風格なんかありはしません。ただ、""develop""とは、""envelop""された包みを解くことなのだとしたら、昔の宝物がどんどん「包んでポイ」されていくように見える今日この頃、自分で良いと思えるものをちょっと包みから出してみせるというのも、それほど悪いことではないかもしれません。みんながみんな引っ張る人で、何を引いているのかもわからずに闇雲に引っ張っているのは、それは、万人の万人に対する綱引きで、結局プレッシャーに負けるのがオチでしょうから、たとえば英語の授業を通して、「これは、いいなあ」と思えるものを、一人でも多くの学生が、地味に、こっそりと、見つけてくれるのが楽しみです。
 以上、今日の小噺でした。

第六回 「つらつら考えること」 (2007.02.01)
小坂 圭太(文教育学部 助教授)

自分は音楽演奏を生業としてきた人間ですので、凡そ授業中に話す内容なども、飛躍・矛盾・固執・独善・偏見に満ち満ちていると自覚しており、ここにエッセイを書く立場になる事だけはあるまいと思っていたので困惑しておりますが、日頃感じている事や悩み?について書いてみたいと思います。
 授業形態自体、音楽実技系の科目では演習もしくは個人レッスンが中心で他の教科に比べ特殊性が強いですが、では一般音大のカリキュラムと同じかといえば一般音大のように一年から専攻別になっている訳ではないので、外に謳っている通り、他に非常に類例のない学科だとは思います。そんな中、私なりに、本学本コースの学生と所謂音大ピアノ科の学生像と比べてみると、理解力があり勉強のノウハウと要領を会得した真面目な努力家が多い反面、学科の勉強と両立してきた事の時間的制約で、練習の「量こそ質」とも言うべき年代を経てきていない、そのため解る事と出来る事との距離感が身体感覚化されていない傾向にあります。そして大学入学後も、俗にお茶大三大忙し科の一角と言われるようなスケジュール、しかも音大に比べ絶対的に少ないスタッフ数のカリキュラム(仮にピアノ演奏学で卒業を希望する学部学生全員に音大並みに毎週45分の個人レッスンをするとしたら、私はそれだけで週19コマ38時間働かねばなりません!)ですから、本来必要とされる試行錯誤や無駄さえをも全く削ぎ落とした分量で、必要十分な内容を伝達していかざるを得ない、というタイトな状況にある訳です。そうした中で、今回の科目「ピアノ表現基礎論」を含む演習系の科目では、多くの人が抱えている問題点を集約し、それをある解り易い視点でキャッチフレーズ化(例えば今年度は、親指・人差し指の独立という目標に対し「手は三本とみなそう」を標榜)、その上で使用教材をその文脈で切り捌く、という方法を採用しています。そうする事で個人レッスンでは各人固有の問題に特化した取り組みが出来、効率化を図って? いるのです。
 ですので、そうしたこちら側の取り組みが学生側に好意的に受けとめられているとしたら、それ自体は嬉しい事ですが、ひょっとすると先に書いた、解る事と出来る事とのギャップはそのまま(内容のストラクチュアでなく、話のストラクチュアが解っただけだとしたら、前より以上に)残されてるのかも知れない、と不安でもあります。本来、こういう事の伝達は、「暮しの手帖」の花森安治の台詞ではありませんが、「一つ二つはすぐに役にたち、他の幾つかは心の奥深く沈んでいつしか考え方に変化を生じせしめる」類のものでありたいのですが…、そして、本当はたまに、彼女らに対し理不尽で横暴な要求をし続けた時に追い詰められて舞台でどんな鮮やかな解決を示すのか見てみたい、けれど今は下手するとアカハラと言われかねないな、と思い直し、楽曲の中にある暴虐・残忍・エゴなどの解説に留めてしまってる毎日だったりもするのです。

第七回 「基礎ゼミ「ことばとジェンダー」を終えて」 (2007.03.01)
高崎みどり(文教育学部 教授)

最上階まで最後の階段を上りかかると、左手の嵌め殺し窓いっぱいの光が溢れてきて、その先の小さなドアが浮いているように見える。空気も薄くなったような感覚がー春から初夏までの月曜日の朝の記憶。
 「ことば」と「ジェンダー」ーこの身の回りのありふれた現象を結びつけ、""異化""してみるのは、案外困難なことだ。ひらがなや漢字、呼称といった、何の色もついていないようにみえる所与の存在に「ジェンダー」という概念を衝突させようとする。これだけでも十分に冒険であることは間違いない。
 世界を切り取る枠組みの多様性と、それらのひとつひとつに、ものの見方を一変させるような、さあっと音をたてて風景が反転するような、そんな力のあることー大学とはそういう可能性を提示し、"さあ、こちらに来てご覧。景色がいいよ。よく見えるよ。"と誘うところ。「ジェンダー」も数あるものの見方の(かなり重要な)ひとつだ。
 しかしながら、学生さんには身を切るような切実な「ジェンダー」体験を持たない(羨ましいような、気の毒なような)若さがある。「ジェンダーとは何か」というきちんとした定義から出発し、"これがジェンダーだ"と明確に指摘してほしいという期待がある。それなのに私は「ご自分の経験の中を探ってごらんなさい」「身の回りのことばから気づくことはありませんか」と繰り返す。「がっかりだよ」と感じた人もいたでしょう。
 そんなある日、「女性の方により丁寧な言葉遣いが求められている」ということについての話し合いが、「男女とも自然な言葉遣いがいい」というような方向に向かっていこうとしていた。思わず「"自然な"言葉遣いって何?」と私。「ナチュラルメークっていうのが一番時間かかるんだよね」というような意味不明なことも言ってしまった。困惑する学生。無理もない。レポートにもその戸惑いが書かれてあった。私自身のジェンダー観も問われているのだった。
 ところで、もうひとつの基礎ゼミのねらいに、文献探索、レジュメの作成、司会の仕方などの口頭発表のコツやレポート作成の基本、といったいわば"大学でもとめられる言語表現能力の育成"的な側面がある。今までいくつか勤務してきた大学の基礎ゼミでは、専用のテキストがあったり、図書館ツアーや情報処理の授業とのジョイントとか、図書館の中のゼミ室でいろいろな文献や資料を閲覧しながらゼミができる、学生がレジュメ作りに使える印刷機がある、ゼミの成果を簡易製本して保存できる、等々の支援があった。お茶大にはそうしたものは無くても、学生は自分たちで探し出し、色々な工夫をし、オフィスアワーやメールを活用して見事な発表をしていた。
 話は戻るが、「ジェンダー」だ。大臣が「女性は産む機械」と口を滑らすこの国の今を生きなければならない私たち。「ごめんね」と言ったり取り消したりしたようだが、この表現は、女性を喩える数多くの比喩の1つにちゃんと登録されたのだ。「嫉妬」「妖」「奴」「娶」「嫋」「婢」「婦」などなど女篇の会意文字の意味の偏りに呆れていた学生たちが、どんなコメントをするのか、もう一度、あの浮遊するドアを開けて、聞いてみたい気がする。

第八回 「結局、昔ながらのやり方です。」 (2007.04.02)
武部尚志(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 自然・応用科学系 助教授)

このエッセイの「原稿執筆のお願い」には、授業アンケートの結果で私の講義(「初等解析学Ⅱ(全学向け微積分の講義;二年生前期)など」)が「学生の人気の高かった授業」の一つだったとあったが、頂いた結果を見ても誤差の範囲で他の人と同じにしか見えない。まあ「他の人に比べ著しくひどい講義ではなかった」という事だ、と理解しておきます。
そこで天邪鬼だが、「こんなことしても低い評価につながらなかったみたいだなぁ」という点をいくつか書かせて頂く。尚、以下では主に「初等解析学Ⅱ」を念頭においている(こういう基礎的講義は自分の数学的見識の全てが問われるから一番怖い)。
・シラバスをちゃんと書かない。学生さんの反応・理解度を見ながら臨機応変に内容を取捨選択しようとしているのだが、シラバスで進度を決めておくと心理的なバリアが出来てしまうのでやりたくない。もっとも最近は「臨機応変さ」を失いつつあり、反省しているところである。
・あいかわらずの黒板講義。他の人の研究発表や講義を聞いたりする時、「何の話か適当に分かれば良いや」程度の気持ちだとOHPやその類が丁度良い(プレゼンテーションソフトのアニメはついていけない…;作ってる本人は自己満足してるだろうが)。しかし、内容をしっかり身に付けたい時には手を動かしながら聞かないと私は全然駄目。
「初等解析学」のような基礎講義には、聞いた内容を現場で生かせるようにするという目標があるから、手を動かしながら聞いて欲しい。そのため(若い学生さん達を私の脳の程度につき合わせてしまって申し訳ないのだが)黒板でやっている。ただ、「黒板に書く量が多過ぎ!早過ぎ!!」というご注意は頂いており、これではOHPと変わらん、とこれも反省中。
・現代の最先端の研究の動向は…、なんて話はしない。基本的には19世紀に出来ている話だけ。3・4年生向けなら別だが、1・2年生向けの基礎的な講義は、まだ数学が現代的な抽象性=汎用性を獲得する以前の具体的な感覚から始めないと理解しづらい。
私の学生時代(いつか?は秘密)を含めかなり長い期間、大学の数学の講義のスタイルはいきなり ""現代"" 数学の抽象的な言い方、論理的には正しいが感覚がついていけないような喋り方が主流だった。それが今になって、多くの大学の理工系の先生方の中に、「数学者に数学を教えさせない方が良い」とまでおっしゃる方がいる原因になっている、と私は思う。(最近は数学屋もだいぶ反省しました。)
「この説明なら私が学生時代に聞いても理解できただろうに(仮定法)」と思えるように、数学の手触りの感覚を表に出そうとすると、やっぱり昔の話から説き起こすことになる。でも、「難しい」と言われてしまうので、まだまだ私の修行が足りない。
・やって良かったかな、と思えるのは、二週に一度のペースでレポート問題を出して、そのレポートを丁寧に見て朱を入れること。学生さんの誤解を早めに見つけられるし、「オォ、こんな発想があるんだ!」と楽しませてもらってもいる。学生さんにもまずは好評のようである。
これはお茶大の規模だから出来る話で、もし受講者の数が倍になったらさすがに無理。その意味で、「少人数教育」には感謝している。

第九回 「目標は「わかりやすい」授業を越えること」 (2007.05.02)
赤松 利恵(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 自然・応用科学系 講師)

私は、生活科学部食物栄養学科で、栄養カウンセリング論を含む、栄養教育に関する科目を担当しています。本学科は管理栄養士養成施設の認定を受けているため、カリキュラム内容が決められているなどの特徴があり、エッセイとしてお伝えする意味があるのか正直なところ自信がありません。しかし、私自身、自分の授業を振り返る良い機会と考え、授業で取り組んでいること、心がけていることを書かせていただきます。
1.顔と名前を覚える
 あまり得意ではないので、学生の顔と名前を覚えることに努めています。その方法として取り入れているのが、座席指定です。くじびきや誕生日順(もちろん月日だけで)など、ゲーム性を取り入れながら、席を決めます。座席表と学生の顔を照らし合わせながら、がんばって顔と名前を覚えています。
2.授業の見通しをもたせる
 この先どこへ行くのかわからないと、誰でも不安になると思います。授業においても、どうしてこの科目を勉強するのか、何を勉強するのか最初に知っておくことは大切だと思っています。栄養教育に関する科目は、2年生から始まり2年間通して教育するので、2年生の最初の授業では、科目全体の中での位置づけと2年間での学習目標を説明します。また、半期ごとのそれぞれの科目の最初の授業では、シラバスを配布し、科目の学習目標と各回の授業内容を説明します。
3.経験談などを織り交ぜる
 先の通り、私の授業は系統性を重視し計画的に進めるよう努めていますが、授業では、予定にはない話、いわゆる余談をよくします。私が管理栄養士として勤めていた経験や現在働いている友人の話など、テキストにない話は、学生の息抜きになっているようです。
4.板書ですすめる
 人数が多い共通科目では、後ろ人にも見やすいよう、パワーポイントを使いますが、専門科目では、板書で授業を行っています。それは、自分のノートを作って欲しいという思いがあるからです(これまでの経験で、パワーポイントにするとスライド資料が欲しい、スライドが早すぎるなどの意見が多かった)。ノートをとる時間をとりながら、授業を進めるようにしています。また、テキストの大事な箇所に線を引く作業も、その場で行なうよう、時間をとります。
5.フィードバックをする
 途中で行なう小テストは、テスト終了後すぐに、テキストやノートを使って自己採点させ、どこができなかったのか、自覚させます。また、その小テストは回収し、学生がよく間違えたところについて、授業の中で再度とりあげ解説します。学期末テストについても、テスト返却と振り返りの時間をとっています。レポートの場合も、一人ひとりに、コメントを書き(一言になってしまいますが)、授業では全体の感想を話すようにしています。
終わりに
 栄養教育に関する科目を教える難しさは、「わかった」が到達目標でないところです。たとえば、管理栄養士の態度や倫理に関する内容は、頭でわかっていても実践できないと意味がありません。課題や演習を通した体験学習で、実践力の習得を目指していますが、まだまだ工夫の余地があると思っています。「わかりやすい」授業を越えることを目標に、これからも授業に取り組んで行きたいと思っています。

第十回 「Make it INTERACTIVE!」 (2007.06.01)
大森 美香(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 人間科学系 准教授)

 テーマの「授業の経験や工夫、日常的な授業への取り組み」について改めて文字にすることは、私にとっては、これらを十分に行っていない自己の問題に直面することでもありました。このエッセイを書くこと自体、そうした自身の日ごろを振り返る作業なのだと受けとめ、授業で試してみたことなどを書いてみたいと思います。
 このエッセイ執筆のきっかけとなった「臨床心理学特殊講義」は、ストレスや対処行動、健康関連行動、健康行動に関連する認知や感情といった個人差要因について、基本的な理論や最近の知見について学ぶことを目指した授業です。心理学専攻が中心の30人程度の授業であり、受講者の数や背景知識の点で感触をつかみやすく、非常に構成しやすい授業だったというのが正直な感想です。手ごろな人数だったこともあり、この授業では、グループによるピアティーチングを試みました。数人のグループでのいわばミニティーチングであり、担当グループは、プレゼンテーションに加えてクラスの理解や討論を促すためのアクティビティを用意することが課されます。実際のプレゼンテーションには、どのグループも教員顔負けの発表スライドを作成して臨んでおり、発表ぶりもなかなか堂々としたもの、学生の持つ力に感嘆させられました。学生が授業内容をプレゼンテーションし、アクティビティを行うことで、討論しやすい雰囲気づくりはできたのではないか、と感じています。
 こうしたピアティーチングの試みといい、どうも授業を相互作用的なものにしなければならない強迫観念があるようです。大学院生の頃、学費をファイナンスするために英会話のインストラクターをしていたことがあります(今にして思えば、もっと心理学の研究に専心すべきでした……)。レッスンの課題は、発話を引き出し、既に獲得されている語彙やグラマーを活性化すること。集団の力動を利用しながら、誰もが同等に参加し会話が練習できるアクティビティを考案することが求められます。また、私が受けてきた大学院の授業の多くは、事前に読む資料にもとづくディスカッションが主体であり、グループでの発表やリサーチプロジェクト、授業内のアクティビティのような活動によって、受講生と教員、受講生間の相互のやりとりが促されているものであったと記憶しています。
 結局のところ、自分の授業スタイルは、これらをモデルに試行錯誤している段階です。集団の力動を利用して学生の相互学習を促せるような授業、学部の小規模な授業ではこのようなことができればと思案しているところです。

第十一回 「学生の声を聴く」 (2007.07.02)
服田 昌之(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 自然・応用科学系 准教授)

授業を担当するにあたっては、学生が何を身に付けてくれるかを考えて、科目全体の構成から各回の具体的内容までを組み立てるように心がけています。そのためには学生のニーズや到達度を知る必要がありますが、授業評価アンケートからは本音の部分が見えません。
 そこで、4年生や大学院生から、かつて受講した授業について忌憚のない意見をいただくことにしています。関連のありそうな科目と重なる内容が無いかどうかといった単純な事前準備から、授業内容や進め方はどうだったのか、今にして思えば意義のある授業だったのかといった根本的なことまで、厳しくも温かい評価を聞かせてもらい、改善に反映しています。的を射た建設的な批判が多く、助かっています。
 本音を言える関係を学生と結べるということは、学生にとっても、授業以上に大切なことかも知れません。

第十二回 「しゃべらない授業」 (2007.08.01)
柴坂寿子(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 人間科学系 准教授)

自分の授業で工夫していることは何かと聞かれたら、「なるべくしゃべらない」ことと答えます。自分の研究領域は、日常の生活の場に出て、ありふれた日常の行動を実感しつつ観察して記述していくことが基礎にあり、言葉だけでは実感もないし、おもしろさも伝わりにくいので……というのはあくまで建前です。本音のところは、私自身が人前でしゃべるのは苦手なので、できればあまりしゃべりたくないし、無理にしゃべっても学生さんたちの眠気を誘うばかりだからです。
実習や発表:講義科目であってもなるべく実習や発表を取り入れて、しゃべる時間を減らす。例えば観察法の授業では授業外時間に各人が観察をして、清書した記録を授業に持ってきてもらい、数人のグループを作って学生同士の報告会をしてもらったりします。
イントロでの「復習」:授業開始後、先週の内容を質問し、学生に答えてもらう。
ビデオ資料を見せる:関連のビデオ資料を授業前半に先に見てもらい、後半だけ講義する。
図表・事例などをのせたプリント類を配る:話を聞くのではなく資料を見てもらおうという魂胆。学生が手元で見て、書き込みもでき、あとにも残る実物の方が、話に頼らなくてすむかなと思っています。事例は学生を当てて音読してもらいます。
板書:話した後に話の「見出し」や「まとめ」のような部分を板書してノートしてもらう。字が汚いのであまり板書も好ましくはないのですが、とりあえず解読可能な程度に書くよう努力はしています。
授業の小レポート:最後の10~15分はノートや資料を見直して、コメントや疑問点を書いてもらう時間に。次回授業時には返却して、1枚の紙に続けて書いてもらい、学生自身の言葉による資料にしてもらいます。
学生のレポート類の利用:小レポートには教員より的確に内容を表現しているものもしばしばあり、次回のイントロに利用させてもらう。観察記録もアイデアや工夫のあるものを切り抜き資料にして利用させてもらっています。
以上のように、なんでもありで、特に特色ある活動はありません。「なるべくしゃべりたくない」という動機だけが一貫した「工夫」です。

第十三回 「NPOインターンシップに関わって」 (2007.08.31)
三輪 建二(人間文化創成科学研究科研究院 基幹部門 人間科学系 教授)

NPOインターンシップは、コアクラスター「コミュニティ・ボランティアコース」の中に位置づけられており、主として夏休みの期間に100時間前後、自ら選択したNPOでのインターンシップを体験するという科目である。学生のレポートをまとめた「NPOインターンシップ報告書」(2006年度版)から、学生がインターンシップの何に共鳴しているのかを、いくつか取り上げてみたい。
 ホームレスを支援するNPOでインターンシップしたある学生は、これまで、「ホームレスの人は怖いと思って」積極的に関わろうとしていなかったが、「活動そのものを通して自分の視野が広がった」「自分の思い込みに気づかされました」と述べている。インターンシップは、多くの学生にとっては生身の社会的現実に(おそらく初めて)対面するという体験になっている。そこには様々なとまどいと混乱があるものの、NPOの人びとの丁寧なフォローのおかげで、視野の広まりと責任をもった自主的な活動への一歩につながっているのではないだろうか。
 子ども達の課外活動を支援するNPOでインターンシップしたある学生は、NPOのスタッフが、「年齢も職業も関係なく、それぞれが得意な分野で活動し、スタッフみんなで助け合いながら事業を進めていた」ことにとても感動していた。同じ年齢層、似たような関心をもつ大学生同士の集まりや活動ではなく、異年齢・異業種の人々がNPOのモットーに共感して集まって活動している様子を見ることが、「大学生活では出会えないような人に出会えた」という喜びにつながっている。  やはり子どもの創造活動に関わるNPOでインターンシップをしたある学生は、「活動に参加するだけが仕事ではありませんでした。団体を持続し、広めていく活動も力を入れていかなければなりません」と述べている。NPOはメッセージ性が見えやすいので、活動への参加だけでも新鮮な体験であったかもしれない。しかし、表面からはなかなか見えないNPOの地道な活動を体験する中で、持続に向けての着実な歩みと努力が必要であることが分かるようになったということを述べているのである。
 3人の事例からは、視野の拡大、異年齢・異業種の人びとの熱意と共感、地道な活動への関わりといったことが、最初はとまどいや混乱から入りつつも、自分たちの責任をもった自主的な活動へとつながっていったことが見えるように思う。  私たち教員は、良いNPOを見つけること、NPOとの関係を良好に保つことといった、いわば環境整備をするだけであったと言える。自分たちが直接実施する教育活動ではなく、NPOという他者に依頼した教育が、学生から高い評価を得ているという事実を通して、本来の大学の授業そのものを捉えなおす必要性があると考える。



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